目次へ戻る

日本の将来は無い!?

1999年8月10日〜

宇佐美 保

  先日、テレビのリモコンをガチャガチャしていましたら、日本テレビの「知ってるつもり」で、故司馬遼太郎氏は、「日本の将来は無い」と嘆いておられた旨を放映していました。

私ですら、家から一歩外へ出ると、町中、車中などで、だらけ切ってしまった日本人に直接向き合ってしまう事になるので、外出するのが辛くなってしまいます。

勿論、家に居ても、民放テレビは、8月11日号の雑誌「SAPIO」で、落合氏が嘆いておられたように、低俗なババア、コギャル等々に乗っ取られてしまい、うんざりです。

(吉本等のタレント(?)達が、大きな顔をしている始末。

その上、「ミッチー、サッチー論争」などは呆れ果ててしまいます。(別途資料:「芸人」をご参照頂けましたら幸いです。)

 

 何しろ、「視聴率」を合言葉に、番組製作をしていたら、日本人の大多数、即ち、低俗性を最も好む方々にテレビが乗っ取られてしまうのは当然の成り行きでしょう。

(日本中(否、世界中) 大々多数派はなるものは、低俗性を最も好む方々なのですから。)

そして、日々、そのような低俗な番組を製作していれば、テレビ局の方々も、堕落してしまう事でしょう。

(今回の数々の不祥事に対して、TBSの社長がどんなコメントを発表しようが、それは、自らの番組製作の根本を考え直さなければ、まったく空虚なものであり続けましょう。)

 

 又、8月15日のテレビ朝日では、田原総一朗氏の特別番組あなたは、この日本が好きですか!?」で、渋谷界隈をうろつく(前述の如くの、私の毛嫌いする)若者達に「あなたは、8月15日は何の日ですか?この日本が好きですか!?」と問い掛けると、若者達は、殆ど終戦記念日を知らず、「今の日本は、楽しくて、平和なので好きです。」と答えていました。

やはり彼等には、『水も幸せも、平和も、全て無料で手に入る』と勘違いしていると思えて仕方有りませんでした。

 

 それから、メトロポリタン・テレビでは、“日本で最も優れた(?)女性キャスター”とかインタビュアーに持ち上げられて安藤優子氏が、「日本人は、ニコニコ笑ってばかりいないで、もっと怒るべきです。勿論、平和で、ニコニコ笑って居られる事は、とても大事な事ですが、世界のどの国も、日本と同じように良い人ばかりとは限らないのですから。」といった事を、話して居られました。

私は思いました、『この人は、とても優れたキャスターなんかではない!』

そして、『どこの国の人々が悪い人なのですか?

日本人が良い人だという根拠があるのですか?』

 

 日本人も含めて、世界中の何処の国の人々でも、“「良い人」の時は「良い人」”であるが、“その「良かった人」が、ある時、いとも簡単に「悪い人」になってしまう。”という事を、私達は肝に命じておく事が重要だと思います。

 第二次大戦中の日本人は、いかなる事態に於いても“「良い人」だったでしょうか?”

ドイツ人は?それに、ベトナムでのアメリカ人は?コソボでは?……

 

 勿論、安藤優子氏に限らず、最近では、久米宏氏の後釜の噂さえ立っている小宮悦子氏とて同じです。(否、もっと悪いのかも?)

以前、アメリカの高校生が、「原爆の日本への投下の是非」を討論している教室へ、はるばる取材に行き、彼女は、彼らに原爆投下の是非を色々とインタビューした後に、彼等から逆に、『貴方はどう思っておられるのですか?』と質問されて、なんと小宮悦子氏は私自身は、今迄原爆投下について深く考えた事が無かったので、今度来るまでに勉強して、その時に答えさせて頂きます。」と返事していました。

私は、呆れかえってしまいました。

“悦チャン、悦チャンと言われて、悦に居っているが、小宮悦子の頭の中は空っぽなんだ!”

 

 小宮悦子氏は論外としても、安藤優子氏のように、テレビなど公共の場で発言される方は、日頃から自分の足で町を歩いていなくては庶民の動向が判らなくなってしまうでしょう。

 どうも、日本のキーマン達は、電車に乗らずに、車で移動しているようですね。

安藤優子氏が、若し自分の足で街を歩き、電車で移動していたら、とても今の日本人が、「いつも、ニコニコ笑っていて良い人」等とは、思われないでしょう。

座席をめがけて、我先に、電車に乗り込み、股を開いて席を占め、それもシルバーシートに座り込んだ若者達(中年も)は、お年寄りが近くに居られても、狸眠りを決め込み、席を譲ろうとはしません。

街でも、沢山これと似た光景に出会い、辟易とさせられます。

そんな人達に注意しようものなら、逆に『なんだ、その注意の仕方は!お前にとやかく注意されるいわれはない!』等と絡まれた体験が何度もあります。

 

 こんな世相ですから、先日の大雨で、玄倉川で警告を無視して、災難に遭われた方々も、

(少なくも、警告無視を決め込んだ方は) 私が、街で注意した際に、食って掛かってくる人達と、全く同じ方々だと存じます。

この点を、指摘したマスコミは無かったのではなかったのでは?

(死者に鞭打つ事を控えた為とも思えません。鞭打つ事でも、云うべき時ははっきりいうべきではないでしょうか?

 田中康夫氏だけは、“彼らが警告を受けた際の「ウルサイ、お前達引っ込んで居ろ!」と言った旨の態度を、マスコミはもっとハッキリと伝えるべきだ!”と言った事を論じて、はっきりと彼等を非難していました。

(立ち読みした週刊誌でしたので、田中氏のコメントの掲載されていた雑誌名も、発行日も忘れてしまいましたが。)

 

 私は思います。『マスコミの方々は、街中、車中などで、一般市民の不道徳な態度を注意された体験がないのだ!』

若し一度でも、彼らの公徳心から外れた行為を警告した体験があるなら、当然田中康夫氏のような強い(否、当然の)見解を発する筈です。

 

  又、8月26日号の「週刊文春」の“ニュース考古学”では、先のハイジャック事件に対して、猪瀬直樹氏は、次の様に書かれています。

何故犯人をコックピットに入れたのか。四人のベテラン機長に集まっていただく機会があったので訪ねてみた。

「日本の社会通念で考えてみてください。かりにスチュワーデスが殺され、機長が無事に飛行機を着陸させたとしましょう。果たして彼に非難が集まらないと言えますか。犯人の要求を呑んでいれば、若い女性の命は助かったじゃないか、とごうごうたる非難に晒されるように思います。」

 なるほどその恐れはある。しかし責任は機長ではなく犯人にあるわけで、メディアもそれくらいわきまえていると信じたい。……

 何かおかしくありませんか?

機長も、機内乗務員、スチュワーデスも彼らの職務においては、“飛行、乗客の安全が第一”ではないのですか?

又、これらのオカシナ機長の見解を納得してしまう猪瀬氏もオカシクありませんか?

 

 世間がなんと云おうと、騒ごうと、“自らが良しと、判断した事を貫く人”は、日本には居なかったのでしょうか?

 

 いえいえ、そんな事はない筈です。

人間の本質は、永い歴史を経て来ても、殆ど変わっていない筈です。

善良性も、そして残念ながら残虐性も。

そして、もっと残念な事に、周囲の雰囲気や状況に、簡単に感化されてしまう事です。

 

 日頃、暴力番組、暴力雑誌等にドブ漬かりになっている大衆が、繁華街のど真ん中で、ならず者等に殺されそうに傷め付けられている人が居ても、誰一人助けようとも、警察へ連絡しようともせず、あたかもテレビ番組の生番組を見ているかのごとく、そして、もっと徹底的に傷め付けられた方が面白いと思いつつ、皆んなで遠巻きにして、見ていてもそれ程理解に苦しむ事はないのでしょう。

 

 斯く言う私(他人の不正には結構注意したり、警視総監賞を授与された事さえある)も、体格の良い若者が、貧相な体格の中年に絡んでいる(多分、中年の方が若者に何か注意した結果でしょうか)場面に遭遇しても、テレビの暴力番組を見るように、弱者(中年)が、強者(若者)に痛めつけられる場面を見たい気持ちが起こって、直ぐには止めに入ったりしなっかたりするのですから。

 

 なのに、子供達が、極端な暴力行為を行い、そしてその行為が、ある映画、あるテレビ番組、ある漫画等に極似していても、それらメディアの関係者は、“自分達の作品がその子供達に影響を及ぼしたはずは絶対ない!”と、うそぶきます。

 (私達大人より周囲の影響を受け易い子供達が、それらメディアの影響を受けないはずはないではありませんか。)

 

 どうか、マスメディアに携わる方々、又、その周辺に居られる方々、目を覚まして下さい。

目を覚まして頂くのは、全員でなくて良いのです、ほんの一握りの方々だけでも良いのです。

 そして、目を覚めした方々が、一生懸命に活動なされば、いつの日か、状況によっては、惰眠を貪って居る方々も、目を覚ますようになるかもしれません。

(私は、テレビ『ニュース・ステーション』に登場して来る、『朝日新聞論説委員』等とおっしゃる方々が大嫌いです。現在の轡田氏に、代表されるが如く、一献傾けながら、俳句などを読み上げたりしつつ、“ええ、そう言うことも困ったもんです。どうにかならないもんでしょうかね。”といった具合で、 彼らは、自分の信念等を貫こう、アッピールしようという意志、行動などは皆無です。

唯一人、菅沼栄一郎氏だけは違いました、彼は、自らの意見を声高に叫びました、バタバタしました、もがきました、街中にも出て行きました。

少なくとも、惰眠を貪っている人達より立派でした、貴重でした。

でも残念な事に、なんだか変な事で、姿を消されてしまいました。)

 

 メディアの方々、周辺の方々、“トップが変わらなくては駄目だ!”とおっしゃらないで下さい。

トップの方々に期待しないで下さい。

 

 この世の中では、傑出した人は、極限られた人数しか居ないのです。

ソニーやホンダの創業者達と同じ様な方々が、何処の企業のトップにも居られるでしょうか?

 例えば、『オーム事件』の時代の、TBSの幹部は如何だったでしょうか?

彼らの中に一人でも正義感を携えていた人が居たでしょうか?

否!皆無でした。(別文「TBS問題」を御一読下さい。)

 

 でも、たった一人の力でさえ、世界が変わりもするのです。

善悪は兎も角、ナポレオン、ヒットラー達は一人の力で変えました。

(日本人と、フランス人、ドイツ人に根本的な相違は無いのです。

日産のゴーン氏のように(2003年4月24日追記))

 

 それにつけても、残念なのは、菅直人氏が、中坊公平氏を担ぎ出さんとした際、何故、マスコミはバックアップしなかったのでしょう?

(そして、又、残念な事に、彼自身も、菅沼氏同様に、変な事で消え去ろうとしています。)

 

 菅氏にしても、菅沼氏にしても、多くの欠点を抱えられているのかもしれません。

しかし、「自らの議席を守る事」が第一目標の、今の国会議員達よりは、私は、彼ら二人の方が数段好きです、又、期待もしていました。

 

 今の嘆かわしい「自らの議席を守る事が第一目標の議員」を支えているのは、国民です。

そして、その国民が、テレビの『視聴率』を支えているのです。

そして、テレビは、その『視聴率』を確保する為に、より愚劣な番組を提供し、その国民をより具劣化し、その結果、より愚劣な議員達が蔓延るこの世の中にしているのです。

 

 しかも、“一日、会社勤めで疲れて、家に帰って迄、お堅い番組を見る気はしない。それよりも、くだらない番組を見て、一日の気分直しをしたいのだ。”等との、視聴者のコメント等を、放映し、テレビは、自らの低俗番組を正当化します。

オカシクはありませんか?

テレビが、国民を愚民化し、その愚民化した国民が、低俗番組を支持するからと言って、低俗番組の正当性を主張するのは、変ではありませんか?

 

 特に、CMは、余りに酷すぎるのではないでしょうか?

男性の下半身に訴えかける如きのCMはもとより、音を立ててお茶付けを掻っ込むCM、余りに品がないではありませんか?

 こんなCMに対しては、非難ゴウゴウと思いましたが、朝日新聞の広告批評的コラムで、広告批評家の天野氏は、このお茶漬けのCMが結構人気が有ると支持(?)されていました。

その理由が、このお茶漬けのCMを支持する視聴者の言い分(奥さん方でしょうか?)は、“あんな風に(下品に)音を立ててお茶漬けを食べてみたいと日頃思っていたことをCMが実践してみせてくれるのが何ともいえない快感である”と言うのですから。(そして、この言い分を天野氏は“成る程一理あると思った”と言うのです。)

呆れてしまいます。

こんな言い分が罷り通るなら、渋谷の交差点の真ん中で、生殖活動に勤しむCMが出てきたら日本中で大喝采でもするというのですか?

 

最近では、天野氏は、若者達の「アクセント無し言葉(外国語のみならず、今では、従来の日本語さえも)」を(“言葉は時代と共に変化する”との御見解なのか?)支持されていました。

 私は、若者達の「アクセント無し言葉」は、正規のアクセントを知らない、或は、自信が持てない為に、そして、アクセントを付けには体力(腹筋の活動)が必要とされる為、だらしなく「全ての言葉をアクセント無し」に発音して行くのだと思います。

 こんな事では、全ての事態が自然の成り行きとして、だらし無い方向へと落ちて行くでしょう。

 なにしろ、人間は、だらし無い方が楽なのですから。

 

 そして、7〜8割り方の人達は、このような事態に気が付かずに、今のテレビを満足して、その視聴率を支えている方々でしょう。

 

 古来日本には、宮廷文化、貴族文化、武士の文化などが存在していて、それの反面的文化として庶民文化が存在発達してきたのでしょう。

これらの文化は、互いに表裏一体となって発展して来た筈です。

 

 ところが、最近は、一億総中流化となり、所謂権威が否定嫌悪され、或る意味での裏文化である庶民文化こそが本流であるとの錯覚が(無意識の中)心の奥に巣食ってしまっている様です。

 

 少なくとも人は、(愚民化されていなければ)向上心、或は、好奇心に導かれる向上心を如何なる場合でも持っているはずです。

 

 読売新聞のトップの「ナベツネ」氏は、前立腺癌の手術の際、『量子力学』を初めとして、所謂、お堅い本を何冊も携えて入院した旨を、『文芸春秋』だかの雑誌に(自慢げに?)書かれて居りました。

 

 テレビ黎明期に、早々と“テレビによる一億総白痴化”を予言された大宅壮一氏は、確かに偉大でした。

でも、その黎明期には無かった『放送大学』『デスカバリー・チャンネル』そして、『NHK教育テレビ』を私は好きで見ています。

 『脱白痴』を目指す、明日の民放を期待したいのですが、如何なものでしょうか?

 

 (そして、せめて、今の視聴率を支えている文化は、「(所謂)裏文化」でしかないのだとの認識を、視聴者に教えて頂きたいものです。)

目次へ戻る